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文革前後の30年を中国で費やした米国人女性の過酷な運命

2019-02-10 16:18
米国人の父と中国人の母を持つ韓秀さんは、米国籍を持ちながらも1949年の中華人民共和国設立から30年間、中国で過ごさざるを得ませんでした。その間には周囲から『敵国人』とみなされて辺境の地で肉体労働に従事させられ、苦難の時を過ごしましたが、米中国交回復前に、晴れて米国への帰国を果たしました。 1946年にニューヨークで生まれた韓秀さんの父親は中国駐在経験のある軍人で、母親は米国への留学生でした。1949年に韓さんは、わずか2歳で中国に住む祖母のもとへ預けられました。 しかし同じ年の10月1日に中国共産党政権が成立して米国との国交が断絶したため、韓さんは米国の両親のもとへ帰れなくなりました。韓さんの父親は国民党政府に協力した米国軍人で、共産党政権から敵とみなされていたため、韓さんの苦難の30年がそこから始まることになったのです。 韓さんは8歳の時の体験から語り始めました。 韓秀さん 「天安門で開かれた集会に中学生や小学生も参加し、たくさんの人がいた。アイゼンハワー米大統領(当時)の顔を漫画にしたものと米国国旗が用意され、私は彼らの輪の中に立たされた。彼らは絵や国旗に火をつけると、口々にスローガンを叫んだ。私はその輪の中にいた」 1957年に毛沢東の主導で行われた「反右派闘争」によって、多くの知識人をはじめとするいわゆる「右派分子」への弾圧が始まり、韓さんもまた、米国人の父親を持つことで学校中から攻撃の的にされるようになりました。 1964年、成績優秀だった韓さんは北京大学付属高校を卒業しましたが、「出自が悪い」との烙印(らくいん)を押されて大学への入学が認められませんでした。学校側は韓さんに対し、父親や米国と関りを絶つのであれば、清華大学への入学を許可するが、そうでなければ山西省の農村へ追いやると迫りました。 韓さんはこれに応じなかったため、山西省の農村で3年間過ごしました。その後、新彊ウイグル自治区で9年間、兵団の一員として開墾事業に従事させられました。韓さんの青春時代は残酷な政治闘争によって苦難の中に終わっていきました。 韓秀さん 「新彊生産建設兵団第三師団では、10万人が伐採作業に駆り出された。10年の間、木を切り倒し根を掘り起こし、農地の開拓に明け暮れた」 1972年、米国と中国の間で国交正常化協議が始まりました。ですが新彊という辺境の地でアメリカ人が過酷な労働に従事させられていることは、誰も知りませんでした。 1976年、韓さんに先天性二分脊髄症があり、肉体労働ができない体であることがわかりました。しかしこの時点で韓さんはすでに、山西省と新彊ウイグル自治区で12年もの間、過酷な労働に従事していました。 1976年4月、鄧小平の事務室から「この人物を新彊にとどめておくべきでない」と書かれた一通の文書が届きました。このことで韓さんは北京に戻ることができたのです。韓さんはその後、紅衛兵に奪われたままになっていた自分の出生証明と期限切れのパスポートを取り戻しました。この時に自分がすべきことが分かったと韓さんは言います。 そのパスポートを手に、韓さんは米国の駐北京連絡所の扉をたたきました。この瞬間に、韓さんの人生は大きく転換したのです。 米国連絡所ではわずか6分間で、韓さんが米国の市民権を持つと認められました。ですが新たなパスポートを取得するまでの1カ月の間、韓さんは普通の生活が送れなくなりました。警察や公安から数々の嫌がらせを受けるようになったからです。友人らは韓さんに、このままでいると命が危険だ、中国を去った方がいいと忠告しました。 米中が正式に国交を樹立する前の1978年1月、当時のカーター大統領が中国に対し、まず中国国内の米国市民を帰国させるよう強く迫り、韓さんは中国から米国へ30年ぶりに帰国した最初の米国人となりました。 韓秀さん 「カーター大統領は米国務院に対し、中国政府に強烈な要求を突き付けるよう求めた。それは、『100回にも及ぶ協議の中で、中国政府は米国に対し中国国内に米国市民は一人もいないと嘘をつき続けてきた。だがテレサ(韓秀)が今、ワシントンに来ている。ならば中国には第二、第三のテレサがいるはずだ。具体的な人数を米国政府に提出するよう求める』というものだった」 韓秀さんは30年を経てようやく自分の居場所に戻ることができました。西洋人の顔立ちをした韓さんは標準的な北京官話を使い、正体字で文章をつづる米国人です。かつて中国で過ごした苦難の日々を書き記すことにした韓さんは、すでに46冊もの本をしたためています。